大阪でとても悲しいニュースがありましたね。
ニュースを読むだけでも、涙が出そうになります。というか涙がでます。
ちょっときつい言葉も出るので、不快に思われる可能性がある方はここで読むのと辞めて頂いて構いません。
犯人の男性は一生かけて罪を償ってほしいというか、償わなくていいので極刑としてその生涯を閉じてほしいです。
本人にも人権はあると思いますが、ないです。等価交換の原則を適用すれば、奪ったのであれば奪われるのです。
命を奪った対価は、命でしか払えないのです。
そして、どうしても思ってしまうのが、まずい状況だと知っていたのに、誰一人、その子を保護しなかったことです。
お母さんの友人、知人の方も児童相談所に相談したそうです。でも取り合ってくれなかったと。
取り合ってくれないなら、なぜ自分で直接乗り込んでいって、子どもを保護できなかったのか。
責任追及したわけではありません。
ただ、なぜ声を上げるというだけでなく、直接助けるという「行動」ができなかったのか。
動いてくれないなら、自分で助けに行く。
だって、川におぼれている人がいたら、飛び込むじゃないですか。
もちろん、泳ぎが苦手とかだったら、自殺行為です。だから、躊躇する人がいるのも分かります。
でも、その子の家に乗り込んでいっても、命はなくならないわけです。
犯人が逆上するというリスクはゼロじゃないけど、保育園に来た時に保護するとか、警察や児童相談所や友人を引き連れて乗り込むとか、安全に保護することはできるわけです。
とりあえず乗り込んで、ひと騒ぎ起こせば、ニュースになったりしてもっと明るみにでるわけです。
保育園幼稚園の先生はなぜ気づいていたのに、自分で動かない。
児童相談所はなぜ保護しない。
グレーだからできない?
ルールを外れるからできない?
ちょっと本屋にいってみてください。
ルールから外れろって言ってる本ばっかりです。そんな本ばっかりがベストセラーです。
ルールが悪いなら変えればいい。ルールは後から変えられる。でも、命は後から戻らない。
グレーだったらやらない、じゃなくて、グレーだったら動くなんです。だって、取り返しがつかないものがかかっているから。
黒だったら取り返しがつかないものを取り扱う時、グレーなら動くんです。
疑わしきは罰するのです。
ルールより大事なものが目の前にあるのに、なぜ動かないのか?
先週、夕方のニュースでこんな話を聞きました。
とある小学生が、夏休みの自由研究で色んな石を集めて図鑑を作りたいと。
そこで、Twitterを使ってお母さんが全国の方に各地域の石を送ってほしいとつぶやくと、何万ものいいねがつき、何百人もが石を送ってくれたと。
日本にはこんなに良い人がいるのに。こんなにいいねがつくのに。こんなに石が届くのに。
なんで目の前にあるSOSに対して、それを知ってもなお直接助けにいく人が一人もいない?
死んでから花を添えても遅いんだよ。誰かに言いつけたとか、外傷がないから保護しないとか、本人がもうしませんって言ってるとか、そういう事じゃないんだよ。
そんな事は求めてないんだよ。
だれか一人、「よし、俺が助ける!」「とりあえず俺が、私が保護する!」
そう声を上げて、助けるという行動を起こす人が、なぜ一人もいないのか。
目の前に倒れている人がいたら、救急車呼ぶでしょ?
子どもが精いっぱいのSOSを出した。
だったらそれに応えようよ。
救急車呼ぶのと同じくらい簡単やん。ちょっとうちで預かります。児童相談所でも知人で保育園の先生でも誰でもいいから、誰かに託すんじゃなくて、自分で動いて、自分の手で助けてよ。
もちろん、児童相談所でも、保育園でも、お父さん、お母さんの友人でも、きっとそういうのを見かけた時に動いている人がこの世の中には沢山いると思うんです。
だから、こうした悲しいニュースは、そうそう出てこない。
それに、比べちゃだめだけど、戦前戦後は子どもも沢山なくなってます。大人は見て見ぬふりでした。それは、大人も助ける力がなかったから。助けたくても助けられない命だったから。
今回の悲しいニュース以外にも、危ない目にあっている命が沢山あり、それと同じくらい勇気をもって、自分の損得勘定や責任や職務の範疇を無視して行動を起こしている人がいる。
だから、こんな悲しいニュースは滅多にない。そう思っています。
それは分かっています。
でも、石ころ一つにあんなにいいねがつくのに、3歳の子どものSOSに手を差し伸べられない現実が、僕はただただ許せないのです。