こんな記事を読みました。
もう1つのテーマは、「思考停止」。世の中は便利になっていて、ある意味、ぐうたらでも楽しく生きていける時代になっているわけです。だからこそ、あらゆるサービスが思考停止状態で使えるサービスでなければならなくなる。
僕もお昼を食べたいと思ったら、Googleで検索してお店を比べる。でも、もう考えることが面倒くさい。だから、アプリを開いたら「今日はカレーを食べてください。カレー屋は、この道をまっすぐ進んで右です」というところまで言ってくれるとか。
https://toyokeizai.net/articles/-/210613?page=3
何とも衝撃的じゃないですか。思考停止でも使えるサービス。思考停止が楽しい時代。
賛否がある話である一方で、マスに受け入れられるサービスは、考えない事を更に心地よくする必要があるもの。
僕は既に日本人の生活はかなり思考停止でも生きていけるレベルまで発展しきっていると思ってました。
特に地方は深刻だと思っていて、休日お昼のメニューを外食しようとして頭に浮かぶのは「牛丼」「かつ丼」「ファミレス」「うどん」「ハンバーガー」「ラーメン」etc
チェーン店ばかり。
正直悲しいし、探せば個人店や地元のチェーンもあるんだけど、正直めんどくさい。
新しいお店を開拓しようという気にならない。
何も食に限らず、衣食住の全てが安価で高品質。
よく、日本は裕福。これほど恵まれた環境はないという話を耳にする。
それは本当だと思う一方で、チェーン店で味のしないトンカツ定食を700円で食べる生活は、果たして貧しくないのか疑問が残る。
大抵地方都市の生活はチェーン店とモールに集約される。独自のコミュニティや文化もあるだろうけど、生活の基盤は先の2つだ。
都会こそ、様々なものが目まぐるしく現れては消えていくので飽きはこないし、嫌でも思考させられる時もある。
地方は違う。
一部思考しまくっている人もいるけど、それ以外はさながらシムシティ。
住民はお決まりのルートに沿って、お決まりの場所で、お決まりの消費をし、生活していく。
そこに追い打ちをかけるようにインターネットサービスが加速し、地方の生活はもっと色褪せた。
よく思うのだけど、地方にも若者はいる。地方は年寄りばかりと言うけれど、そんなことはない。
地元で夏祭りなどやれば、一体普段どこに隠れていたのかと思うほど若者で溢れかえる。
お祭りは家では体験できない。口を開けて待っていてもこない。だから若者は行く。
でも、普段は違う。指先一つであらゆることが済んでしまう。考えるまでも、そもそも考える必要はない。
タイムラインにとめどなく流れてくる情報を、ひたすら飲み込み続けれ良い。
時おり、そんな生活に嫌気がさして、変わろうと決意する人もいる。
「思考停止」というワードは非常に強力で、大半の人がこれに陥っている中、思考できる一部の人がどんどん豊かになっていく。
社会は、思考する人としない人に大きく別れていて、思考する2割の人が残りの8割の人をコントロールしているかもしれない。
コントロールはやや語弊があって、サービスを作る人と消費する人ということ。
日本という国自体も、実は似たような部分があって、サラリーマンという思考しない(これも表現があまり適切ではないです)人が多額の税金を払い、様々なシステムが維持されている、と見なすこともできる。
知らず知らずのうちに、自分も思考停止しているかもしれない。
でも、逆に言えば、思考さえ出来ればそうはならない。
人の思考停止を進めるような視点で物事を考えれば、新しいサービスを作れるかもしれない。
いや、思考を止めるのではなく、省くという方がより正しい。
止めてしまってはいけない。それは、当人が気づいていないとしても、あまり社会全体にとって良いとは思わない。
余計な思考を省き、より頭を使うべきことに時間が注げるようになる。
でも、そうなると頭の使い方、思考自体を出来るように補助する必要がある。
思考しなくて済むことが増えるということは、思考の習慣がなくなる事を意味する。
そうなってしまったら、人間はどうなるだろうか。
何かの映画で、人々が時間の大半を瞑想に費やすという設定があった。
瞑想であっても、シムシティと見分けがつかない現実であっても、結局は本人次第なのだが、どちらに転んでもこの国が良くなるとはあまり思えない。