Column

「好きなこと」を相対化するから「好きなこと」が見つからない話

自分が好きなものを肯定できない。

より正確には、人と相対化してしまい、好きだと認める事が出来ない。

そういう事ってありません??

例えば僕の場合、

ガンダムは好きでほぼ全作品を観てるけど、オタクという程知識はない。
プラモデルも100体以上作って来たけど、エアブラシとかまで使うほどの拘りはない。

これって好きって言えるのかな??

最近、好きなものほど上達するし、突き詰めれば趣味が仕事にもなるって言うけど、自分はそこまでじゃないかも・・。

そもそも、大人にもなってガンダムって・・・

あー、好きなものってなんだろう・・・。

自分には好きなものなんてないのかもしれない。ダメだなー俺。

同じように悩む人、絶対いますよね。

で、この思考を整理すると、

・「好き」を相対化している
・「好き」の尺度と程度をなぜか決めている

「好き」をレベル化し、一定程度ないと好きと名乗る資格がないと思い込む状況に陥っているわけです。

この話をすると、ホリエモンが言う所の「永遠の3歳児たれ」や「猿のようにハマれ」的な多動力の話にシフトしそうなんだけど、そこまで行くと結局は「趣味で飯食え」論に入ってしまう。

僕が言いたいのは、そういう生き方はさて置いて、もっと単純に「好き」という感情を受け止めよう!ということ。

・大して詳しくなくてもいい

・人と比べなくていい

・大人なのに・・・とか条件をつけなくていい

別に仕事にするわけでも、極める必要もない。

「好きなこと」がないと悩んだり、自分の「好きなこと」を認めるのを躊躇するならば、

まず第一に「好き」と素直に認めること。

条件はつけない。好きか嫌いかで判断する。

これに尽きる。

実は「好きなこと」問題の構造は、恋愛と全く同じ。恋愛でも、好きな人ができても認められないことがある。

「なんで俺があんなやつ好きなだろう」とか「好きだけど、どうせ私が告白しても・・・」とか「自分が好きになるなんておこがましいよな」とか。

好きな気持ちを認められない。なぜなら、誰が決めたわけでもない制約や相対化をしてしまうから。

自分より素敵な人は沢山いる。だから自分が言ってもダメだ。

同じく、好きなことがあっても、自分より詳しい、好きな人はいる。自分は好きというレベルではない。

こう考えてしまう。

本来は思う必要ないのに。だ。

「好きなこと」を見つけるためには、この「相対化」や「思考の制約」を外し、yesかnoかで判断する。

判断したら次に行うのが、「表出」

つまり、「好きなこと」をアピールして行くことだ。

別に特定の誰かへ伝える必要はない。

自分の目に止まる場所、好きであることを視覚で認識できるようにするのだ。

そこで僕が思いついたのが「ステッカー」

ついさっき、ホビーショップへ行って目に入った「好きなこと」に関するステッカーを買ってきた。

ホテルに戻って早速MACへはりはり。

こうやって、好きであることを表に出す。表現する。

表出させることで自分で認めることができる。

私は〇〇が「好きだ」と。

そこに他者の意見や存在は不要。自分で、自分に向けてアピールすればいい。

ここが恋愛との違いだ。本来「好きなこと」は誰かに言う必要も、理解してもらう必要もない。

だって、超個人的なことだから。

でも、その超個人的なことをなぜか相対化し、認められない人がきっといる。いや絶対いる。

それはあまりにも勿体無い。

童心に帰り、心のリミットを外し、感情に任せて判断すればいい。